三つの史料から見た小田原合戦 『太閤さま軍記のうち』 小田原北条氏の滅亡

『太閤さま軍記のうち』
小田原北条氏の滅亡
三月二十九日、関白秀吉公は箱根山へ軍勢を入れられた。
中村源兵衛が法螺貝を吹き立てると、先陣は中納言秀次の軍勢がどっと山中の城堀へ飛び入り、先を争い、塀・柵を引き崩し、一団になって攻め入ったが、一柳直末が討ち死にした。
すでに城に入っている敵勢は、松田右兵衛太夫・間宮豊前守をはじめ屈強の強者は数を知れず。勢いを休めることはない。
大納言家康卿が先駆けなされ、北条の本拠小田原城へ押しかけ、海上からは九鬼大隅、加藤左馬助、大将として能島・来島・因島・熊野浦・熱田浦、などが大船をもって押し寄せ、海、陸共に鳥の通いもないほどに城の近くを囲んだ。
石垣山を秀吉の本陣として城を築いたが、城は光り輝き、結構な普請で、北条の小田原城を眼下に見下ろされ、北条氏規は支城である韮山に立て籠っている。
だが、これもまた、秀吉軍が包囲している。
諸軍勢、ことごとく、人数はそのままで馬の飼葉に至るまで三枚橋(沼津)において長束大蔵が奉行となってお渡し下さり、ありがたいことである。
小田原城を夜も攻めたので、早々に餓死状態になり、迷惑し、城を明け渡したいと嘆いているが、懲らしめのために、干殺しになされようとそれを受け入れられることはなかった。
そこで、北条はとうとう家康に泣きついて、城主が切腹をするので、城に籠っている者たちを助けてほしいと言ってきた。
七月十二日、北条氏政、北条氏照、重臣松田憲秀・大道寺政繁などの腹を切らせ、退治なされた。

ここでは、小田原城は餓死状態になったことから、秀吉に降伏したことになっている。
まさに、これまで秀吉が得意とした「干殺し」作戦が功を奏したことになるが、事実はそうではなかったようである。
これについたは、また、他の史料を見てみたいと思う。

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