三つの史料から見た小田原合戦 小田原征伐の動機

「秀吉と小田原北条氏とのこと
北条左京太夫氏政は、近年、諸国横領せしめ、ほしいままにあい働き、朝恩を忘れ、綸命(りんめい)にも応ぜず、公儀をないがしろに扱い申す。しかりといえども、秀吉公御慈悲をおびしめされ、上洛いたし、参内しかるべきと、度々、津田隼人・富田将監をもって、仰せ含められ候へども、遅々いたし、げにげに、まかりのぼらず候らはば、御動座なされ、急度仰せつけられるべき趣き、御諚のところに、北条威ばからひの申しよう、関東一の木戸、箱根山丈夫に要害を構え(山中城外)あい抱えべきにて候。例えば、京畿何万騎打ち向うというとも、由比、蒲原境として在陣たるべし。(中略)翌年三月一日、秀吉公御動座なされ、御退治候はんの由、仰せいだされ、御人数大軍にて候間、二月一日より、五日づつ間をおかせられ、一頭づつ御先陣いたされ候。筑紫・鎮西・中国・五畿内・北国・南方の御人数まかり立て、先は富士の嶺がたに在陣候へば、後陣の勢衆者・播州室・須磨・明石・兵庫・西宮・京まはりに、さしつかへてこれあり。」

これは、『信長公記』を著した太田牛一『たいこうさまぐんきのうち』の一節である。
これは、秀吉寄りの史料として、当然のように北条氏は関白秀吉の命に従わず、それをないがしろにしたので成敗されたとの立場を取っている。

『フロイスの日本史』
「この武将(北条氏直)は関白に服従し、秀吉のもとへ訪れるよう命じてはいたものの、自身が罷り出て服従の意思があることを示そうとせぬばかりか、関白から要求された人質を差し出そうともしなかった。彼は関白を天下の主として認めると言明しながらも警戒態勢を保ち、彼自身に関して関白が要求してきたことには一切応じようとはせず、他の諸侯のように服従しなかった。のみならず、彼らはその間、いかなる事態にも対処できるように着々として準備を固め、武器、弾薬、食糧などを募集することに余念がなかった。そして、彼は、関白から日本の他の諸侯の様に自らも伺候して恭順の意を表するように強要されると、その訪問と服従を拒否することを決意した。そこで、関白は、自ら軍勢を率いて彼と一戦を交える覚悟を定め、大規模な戦闘準備に着手した。」
宣教師、ルイス・フロイスも、北条氏は秀吉を関白と認めず、服従しようとはしなかったので秀吉は一戦を交える覚悟をしたと秀吉寄りの立場を取っていることが分かる。

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