三つの史料から見た小田原合戦 『川角太閤記』北条攻め

『川角太閤記』
箱根山中城の攻め手は三好孫七郎(秀次)様、お供は中村一氏、田中吉政、一柳末直。
韮山の城は長岡越中(細川忠興)である。
家康様は、箱根より左へ付かれて、しん山の端を抜けられ、小田原を廻り、そうせん寺の原へ出られ、それより小田原の東の出口、今井のたんぼう、その次、北は尾張常真(織田信雄)、その次は備前衆(宇喜多)その次は三好孫七郎殿。それより山手は秀吉の旗本、早川口は羽柴左衛門正殿、その外、御馬廻りで小田原の海岸端まで取り巻いた。
海上は海賊衆が担当し、武蔵・下総方面は羽柴筑前守殿・肥前守殿(前田利家父子)上杉景勝・浅野弾正長政、その他八人、所々の城攻めは書付けない。
家康様・信雄様は一つの陣に置かせられた。
その理由は、小田原城主北条氏直は家康の婿である警戒されたということだ。(中略)
小田原の陣中へ、関東・奥羽の大名衆も御礼に罷り出られ、伊達政宗殿も早々に御礼を済ませたようだ。
佐竹殿は少し遅くなられたという。
七月十二日、氏政切腹。氏直は高野山に入ったが、大坂で疱瘡になられ、亡くなったということである。
氏政の首は京都の堀川通り戻り橋に掛けられた。小田原城を受け取ったのは、黒田官兵衛である。(後略)

これも簡潔に要点だけをまとめている感じである。
詳細はなく、伝聞によるものが多いのが特徴である。

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