三つの史料から見た小田原合戦 合戦の経過⑤

上洛が決まったのは、六月四日であったが、氏規が聚楽第で秀吉と対面したのは八月二十二日であった。
その場には、豊臣秀長、毛利輝元、上杉景勝、宇喜多秀家、織田信雄、家康、さらには菊亭晴季をはじめとする最高位の公家たちも参列し、ここに氏規は秀吉の並々ならぬ力を思い知ったはずである。
北条氏の上洛によって、ここに秀吉はいったん赦免の意思を明らかにした。
また、秀吉はこの対面で、「問題になっている国の境目の画定を行ってやるからしかるべき家臣を上洛させよ」と氏規に伝えたことから、翌年天正十七年(1589)二月に家老の板部岡江雪を上洛させた。
それにより、秀吉は「上野のうち、真田昌幸が領有している知行の三分の二は沼田に付けて北条に与え、三分の一は真田のものとし、その中にある城も真田のものとし、真田が北条に与える三分の二の替地は家康から真田に渡すことにする」との裁定を下し、「北条が上洛するという一筆を出したら、すぐに上使を派遣して沼田を渡す」と約束した。
秀吉の側近妙音院らはすぐに小田原に下り、北条氏政が年内十二月までに上洛するという一筆を預かって京都に帰った。
これにより、七月、沼田城とそれに附属する領地が真田家から北条家に引き渡された。
また、北条家も家臣たちから氏政の上洛費用を徴収するお触れを出した。
しかし、その最中、天正十七年、つまり同年、氏政の上洛直前の十一月三日、沼田城を預かっていた北条氏の家臣猪俣邦憲が真田家の城名胡桃城を強奪するという事件が起きた。
この事件は、秀吉の裁定に従わず、なおかつ秀吉の家臣真田の城を攻めて奪い取ったことを示し、これを聞いた秀吉が激怒して北条征伐を決意したと言われてきた。

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