三つの史料から見た小田原合戦 合戦の経緯⑥

しかし、秀吉が後に五奉行となる長束正家に与えた十月十日の書状には、小田原合戦のため、兵糧二十万石と馬二万匹分の飼料の準備を命じ、同じく越後の上杉景勝には来年関東陣における軍役を知らせている。
これは名胡桃事件が起こる二十日以上前であり、ここから、秀吉は名胡桃事件にかかわらず北条を攻めることを決めていたことが分かる。
実は、この名胡桃事件そのものも不審な点がある。
それは、この事件の発信が真田昌幸からで、真田はこの事件で小県・沼田をはじめ本領を安堵されたばかりか加増もされているからである。
この事件に関しては、真田が知行を加増されるようなことはしていない。
真田昌幸は天正16年五月から翌年天正十七年十一月の間、京都におり、そこで秀吉と密談が行われた可能性がある。
このとき、真田家は秀吉の命で家康に臣従する形を取っていた。
北条征伐後、本来なら家康と共に関東に移らなければならないが、これも秀吉の命で本領に残ることになった。
上田城には多数の金箔瓦が使用されており、真田は秀吉の配下という存在となっている。
また、秀吉の側近和久宗是が天正十七年十一月二十七日付けで伊達政宗に与えた書状の中では「北条が年内に上洛する約束を果たさなかったので、来春に彼の地にご動座なされると仰せです」とあり、名胡桃事件については触れられていない。
この事件が正式に秀吉の文書に出てくるのは十一月二十一日付けで真田昌幸に与えた書状で、これのみである。
ここから、秀吉は名胡桃事件とは関係なく北条征伐を行うことを決めていたということになろう。

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