三つの史料から見た小田原合戦 『日本史』 苦戦する豊臣軍

『日本史』
秀吉は北条殿の国へ入り、幾つもの地点から戦闘を開始した。
北条殿は若干の城を守り抜くことを決意し、関白の軍勢の包囲と遭遇に備えた。
というのは、彼らにとって自ら出撃して野において関白と一戦を交えることは適当でないと思えたからである。
関白はこの戦いを命ずるにあたり、贈賄と威力を巧みに使い分け、間もなく他のすべての国を支配するに至ったので、彼に抵抗するのは、これら北条殿の城だけとなり、その諸城も徐々に包囲が狭められ猛攻に晒された。
しかし、そうした事態にもかかわらず、関白殿の窮状は否定すべくもなかった。
なぜならば、北条殿の城内には十分な貯えがあり、北条方は多大の兵力を擁していたので、人力をもってしてはそれら諸城を占拠することは不可能に思われた。
一方、関白の兵士たちは、遠隔の地方、長途の旅ですでに衰弱しており、豊富な食糧にありつけぬばかりか、その点では不足をさえ告げていた。
従って、わずか数ヶ月でもって城を陥落させることは到底考えられず、まして冬季に入れば積雪のため包囲を継続できなくなって、どこかへ退避することを余儀なくされるに違いなかった。
しかも、この退避の折こそは、北条方の軍勢にとっては待望の機会であり、その際、思いのままに敵を攻撃し、関白勢を一挙に壊滅せしめようというのが、北条殿の魂胆であった。

他の史料は悠々と北条攻めを行う豊臣軍を描いているが、「日本史」では、現地で窮状する豊臣軍を描いている。
同時代の史料である「日本史」の方が、実際の合戦の現実を描いているような気がする。
北条氏は、大軍であるがゆえの豊臣軍が長期間の包囲に耐えられず、また、冬をまじかにすると撤退することを前提に籠城しているとしており、宣教師の視点は鋭く興味深い。

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