10.30講演会から 武田家滅亡④

高天神の籠城衆は最後まで勝頼の援軍を待っていたが、3月、ついに城を出て徳川軍と戦いことごとく壮絶な討ち死にを遂げ、城は落城した。
ここに家康は高天神城を奪還することに成功し、家康は遠江から武田勢力を駆逐し、遠江を手にした。
この高天神城救援の失敗は信長の読み通り、勝頼の求心力を一気に低下させ、その結果、有力家臣たちの離反が相次ぐ結果になった。
天正10年(1582)が明けると、武田一族の信州木曽義昌が東美濃の遠山友忠を通して信長に内通し離反。
それを知った勝頼は一万五千の兵を率いて諏訪まで出陣したが、これに対して信長は嫡男信忠を先鋒とし、森長可と団忠正を先発隊として直ちに木曽に向かわせた。
信長はこの決戦に天皇、朝廷に働きかけ、「東夷追伐」の大義名分をもらい、朝廷も認めた正義の戦いとして甲斐・信濃に侵攻した。
家康も2月に浜松城を出陣し、駿河に入ってこれも武田一族の江尻城主穴山信君を離反させ、甲府に向かった。
信忠は木曽口・美濃岩村口より、金森長親は飛騨口より、家康は駿河口より武田領へと進行した。
ここに織田・武田の雌雄を競う一大決戦が始まるはずであったが、織田の侵攻を知った武田方の城はろくに戦わずに次々と落ちていった。
この中でも、信州諏訪の高遠城の仁科盛信のみが最後まで織田軍を迎え撃ち玉砕して果てた。
たが、伊那の大島城など武田の有力拠点などは城を守る武田一族が次々と城を捨てて逃亡する始末で、武田家は雪崩を打ったように崩れていった。
この劣勢に勝頼は築いたばかりの新府城を棄て、再起をはかろうとしたが、逃走中にほとんどの兵は脱走し、40人とわずかの人数となっていたところを、3月11日、天目山で織田軍の滝川一益、河尻秀隆らに攻められ、勝頼と妻、嫡子が自刃。
ここに武田氏はついに滅亡した。
この逃走中、武田家の重臣真田昌幸は自身の居城上野岩櫃(いわびつ)城に勝頼を迎えるつもりで、御殿まで造営していたが、勝頼は上野に行かず、甲斐から武蔵の方に向かうつもりであったのか、大月まで来たところ、岩殿城主の小山田信茂が勝頼を裏切ったため、天目山へ向かいそこで命を落とした。
勝頼夫人は北条氏の娘だったため、最後は北条氏を頼ろうとしていたのかもしれない。
ここに長年家康を苦しめてきた一大勢力武田家はあっけなく滅亡してしまった。

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