10.30講演会から 武田家滅亡 

しかし、家康は長篠の合戦から三年後の天正6年(1578)3月大井川を越えて武田方の田中城の外曲輪を破り、8月小山城を攻めるなど攻勢に転じ、武田にゆさぶりをかけた。これに対し、勝頼も横須賀城まで迫り、家康を牽制した。
この後も、武田と家康の間で高天神城をめぐって毎年のように小競り合いがあったが、家康はどうしても城を落とすことができなかった。
そして、天正7年(1579)11月、勝頼は家康によって包囲されている高天神城の救援に駆け付け、自身も高天神城に入り家康を牽制した。しかし、これが勝頼による遠江侵攻の最後となった。
武田家の凋落には、上杉謙信の死がからんでいた。
この前年、天正6年(1578)3月、謙信は後継者を決めないまま春日山城で昏睡状態のまま、息を引き取った。
死因は脳梗塞、脳出血とされている。
謙信は終生妻を娶らなかったことから、実子はおらず、実姉の子景勝と北条から人質としてもらい受けていた三郎景虎を養子にしていた。
血筋からいえば、景勝が後継者ということになるが、生前、謙信は美少年との誉の高い三郎を溺愛しており、自身の幼名景虎という名を与えたほどであった。
ここから、景虎は謙信に愛されていた自分こそが後継者にふさわしいとの自負をもっており、景勝も謙信との血筋が深い自分こそが後継者になるべきとの姿勢を堅持した。
ここに必然的に両者の間で激しい後継者争いが繰り広げられることになった。
景虎は北条家当主氏政の実弟であり、景虎が後継者になれば、上杉領は当然すべて北条氏が支配することになる。
そこで、北条氏は全面的に景虎を支援し、一方の景勝はそれを阻止するために全力で戦うしかなかった。
この戦いで大きな鍵を握っていたのが、武田の動きであった。

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