10.30講演会から  

長篠合戦の勝利に勢いづいた家康は、武田方となっていた二股城、犬居城、諏訪原城などを奪還し、信長も美濃岩村城を武田から奪還するのに成功した。
しかし、駿河では武田方の城は相変わらず健在で、遠江高天神城もいまだ武田の手にあった。
一方で勝頼は、敗戦後、北条氏との同盟強化につとめ、北条氏政の妹を妻に迎え、足利義昭の呼びかけに応じて本願寺、中国の毛利輝元と同調し、信長に対抗する動きも見せていた。
家康は遠江の完全支配を達成するには遠江の中央部に位置する高天神城を何としても落とさねばならなかった。

高天神城の攻防
勝頼も高天神城を確保する限り、浜松の家康に圧力をかけることができることから、絶対に失いたくはなかった。勝頼は駿河清水港に築いた江尻城、その西の田中城、海沿いの小山城というルートで高天神城に入るため、家康はそれらの城がある限り、武田の進軍を許すことになるが、現状ではとてもそれらを落とせる状況にはなく、高天神城の西に横須賀城を築き、その西にある馬伏塚城を最前線とし、掛川から諏訪原城のラインで武田を牽制するのが精一杯であった。

以下は武田流築城法を色濃く残す小山城である。
武田勝頼は、この城を経由して高天神城に向かった。
小山城は台地の先端を主郭とし、西に堀切の代わりに三重の三日月堀を配し、さらに主郭の虎口に小型の丸馬出を配すという、武田の見本のような城である。
この城は現在も残っており、貴重な縄張りを今も伝えている。

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