10.30講演会から 武田家滅亡③

危機感を覚えた勝頼は北条領に近い駿河沼津に三枚橋城を築き、北条に対抗したが、北条氏も同じく駿河の清水に泉頭城を築いてこれに備えた。
勝頼は常陸の有力大名佐竹氏を介して信長と和議の交渉をしたが、信長はこれに応じることはなかった。
天正8年(1580)3月から6月にかけて、家康は高天神城の周囲に大坂砦など四つの砦を築いて高天神城を完全包囲し、武田方の駿河田中城、遠江の小山城を攻め、武田を牽制した。
天正9年になると、この家康の動きに、織田信長も援軍を差し向けた。
この頃、高天神城からはついに降伏の申し出があったが、信長はこれを破棄した。
信長は勝頼が高天神城の救援に来ることは難しく、もし、勝頼が城を見捨てる状況になれば勝頼の求心力は一気に低下し、武田は瓦解すると読んだようである。
家康はこの信長に意向に沿って、高天神城の降伏を認めず、あえて総攻撃をかけることを決断した。
降伏の望みを絶たれた高天神城は家康の総攻撃に打って出て、討ち死にするしか選択肢はなくなっていた。
それでも彼らは最後まで勝頼の援軍を待っていたが、3月、城の籠城衆はついに城を出て徳川軍と戦いことごとく壮絶な討ち死にを遂げ、城は落城した。
ここに家康は高天神城を奪還することに成功し、家康は遠江から武田勢力を駆逐し、遠江を手にした。
この高天神城救援の失敗は信長の読み通り、勝頼の求心力を一気に低下させ、その結果、有力家臣たちの離反が相次ぐ結果になった。
以下の図は、武田氏が三河野田城の属城大野田城を改修したときのものである。
丸馬出が効果的に配されていることが分かる。
武田氏はこうして家康の拠点岡崎城の近くにまで拠点となる城郭を築いていたことが分かる。
武田氏こそ家康を苦しみ続けた強敵であった。
それでも彼らは最後まで勝頼の援軍を待っていた

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