ブログ

外国人宣教師の見た日本の戦国時代⑮

アンジロウは、キリスト教の教理を学び、パウロという名をもらって信者になったが、ザビエル一行は1549年11月パウロの故郷である鹿児島に到着した。僧は言語道断の情欲の限りを尽くし、何をしても平気な顔をしているという。その地で、僧たちが不思議に...
ブログ

外国人宣教師の見た日本の戦国時代⑭

同じ月のマラッカからの書簡に、日本と貿易をしているポルトガル商人たちからもらった手紙を見せてもらったが、そのうちの一通は日本のどこかの島に住んでいる裕福な大名が書いたもので、彼はキリスト教徒になりたがっており、すでにインド総督のもとへ使節を...
ブログ

外国人宣教師の見た日本の戦国時代⑬

日本はゴアから約1500キロ以上離れており、多くの嵐や浅瀬や海賊の危険にさらされていることは周知で、船主たちは二隻のうち一隻が日本に着けばよいと思っているが、自分(ザビエル)はどうしても諦めきれないと述べている。1549年1月の書簡で、ザビ...
ブログ

外国人宣教師の見た日本の戦国時代⑫

アンジロウ(弥次郎)は知識欲が旺盛で、理解力も早かった。ザビエルはそこに日本人の優秀さを見たという。ザビエルはこれまで、アフリカやインド、香料諸島の現地住民に会ってきたが、ザビエルの印章では、彼らは教養もなく、それに比べて日本人はずっと優秀...
ブログ

外国人宣教師の見た日本の戦国時代⑪

ザビエルは1540年3月15日にローマを離れ、1542年5月6日インドのゴアに着いたが、そこまでは過酷な船旅であったようだ。ザビエルは、手紙の中で「全世界の富を与えられたとしても、たった一日だけでもこのような苦しい仕事をしたくない」と述べて...
ブログ

外国人宣教師の見た日本の戦国時代⑩

そのころパリからローマに来ていた熱心なグループがいた。彼らは、1538年の4月にローマに着くと、教皇への奉仕を申し出た。教皇は、彼らをイエズス会として承認すべく思案していたが、そのとき、ジョアン三世の使者がローマを訪れた。教皇はさっそくジョ...
ブログ

外国人宣教師の見た日本の戦国時代⑨

フランシスコ・ザビエルはポルトガル王ジョアン三世の命により1541年4月7日にリスボンを出発してインドに向かった。しかし、当初、日本に来る目的はなかった。マルコポーロの『東方見聞録』により、日本の存在は知ってはいたものの、当時日本の位置を示...
ブログ

外国人宣教師の見た日本の戦国時代⑧

肥前の龍造寺氏が大村領や島原の有馬領に進出する勢いを見せると、大村純忠は軍資金や武器を宣教師からの供給に頼らざるを得なくなった。もはや、自力で龍造寺氏に立ち向かうための財力も武力も大村純忠にはなかったのである。だが、宣教師たちから資金を借り...
お知らせ

外国人宣教師の見た日本の戦国時代⑦

ポルトガル人宣教師たちは安全を考え、次の候補地を探し、長崎の福田(長崎市)という港に目をつけたが、それを知った松浦家は大小数十隻の船を繰り出し、またも福田を襲撃した。そこで、三度、ポルトガル人は港の候補地を探し、ついに福田の南にある長崎に注...
ブログ

外国人宣教師の見た日本の戦国時代⑥

ポルトガル人が平戸の次に目を付けたのが、西彼杵(にしそのぎ)半島の先端にある横瀬浦であった。横瀬浦は波も静かで、深さ深く、大型船の来航には適した港であった。この西彼杵(にしそのぎ)半島と大村湾に沿ったところが、大村純忠の領地であった。そこで...