外国人宣教師の見た日本の戦国時代⑬

日本はゴアから約1500キロ以上離れており、多くの嵐や浅瀬や海賊の危険にさらされていることは周知で、船主たちは二隻のうち一隻が日本に着けばよいと思っているが、自分(ザビエル)はどうしても諦めきれないと述べている。
1549年1月の書簡で、ザビエルは、シナから600マイルはなれている日本という国の人々は、とても賢くて、宗教の真理だけでなく教育の一部になっている自然界の真理のこともぜひ学びたいと思っているそうだとも述べている。
また、シナ海と日本の海では、世界のどの国とも同様激しい嵐が起こるでしょう。
それらの海では実に多くの危険があり、たくさんの船が難破することが有名である。
さらに、海賊は捕虜にした者、特にポルトガル人を残虐な手口で処刑すると述べている。
ザビエルにとって、日本への未知の旅は多くの危険が待っていた。
大いなる勇気なくしては不可能なものといえた。
マラッカから日本への出航では、ヨーロッパ人3人、日本人3人の6人であった。
1549年6月の書簡によれば、ザビエルらは、ポルトガル船ではなく、中国のアワンという人のジャンク船をチャーターして出発した。
同乗者は、トルレスというスペイン人の司祭、フェルナンデスというスペイン人の修道士、弥次郎と従者、中国人とインド人が一人、それだけであった。

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