外国人宣教師の見た日本の戦国時代⑰

ザビエルは、昨年末、鹿児島の領主が私たちの宗教の発展に反対していることがわかったので、パウロに後のことを託して、別の場所へ移ることに決めた。
当時の薩摩の国主は島津貴久で、海外貿易には熱心であったが、キリスト教の布教より南蛮船だけを歓迎したいという考えであった。また、鹿児島の仏教側の反発も強かった。
ザビエルは、行く先々の町で布教をしたのではなく、まず、日本の都に行って日本の国家元首に会う。
そして、その王にキリスト教を伝えて、その王をキリスト教に改宗させる。
それができなくとも、その王から日本全国どこでもキリスト教を布教してもよいという許可証をもらって日本で布教しようという考えであった。
しかし、当時の日本は応仁の乱が長く続いた後で国中が乱れ、朝廷も幕府も何の力も持ちえず、一揆や内乱が各地で勃発し、盗賊が横行するという秩序の乱れた時代であった。
中国地方の中心地であった山口は大金持ちの王(大内氏)が住んでいる町で、1万戸以上の木造の家が建っている大きな都市であった。。
そこでは、人々はキリスト教の話を熱心に聞いてくれたが、実際にキリシタンとなった者はほとんどなかった。

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