外国人宣教師の見た日本の戦国時代⑩

そのころパリからローマに来ていた熱心なグループがいた。
彼らは、1538年の4月にローマに着くと、教皇への奉仕を申し出た。
教皇は、彼らをイエズス会として承認すべく思案していたが、そのとき、ジョアン三世の使者がローマを訪れた。
教皇はさっそくジョアン三世の要請をグループの中心者イグナチオ・ロヨラに伝え、ポルトガル人のシモン・ロドリゲスとスペイン人のニコラス・ポパディリヤ、パウロ・デ・カメリノの三人がその任を受けることになった。
しかし、ポパディリヤが重い病にかかったことから、直前でその代理に選ばれたのがザビエルであった。
イエズス会は1540年9月に教皇から正式に「イエズス会」として認められた。
イエズス会はもともとイグナチオ・ロヨラを指導者として仰ぐパリ大学の学生7人からなるグループであったが、ローマに行くころには10人になっていた。
ザビエルとロヨラは共に同じ地方の小貴族で、それぞれザビエル城、ロヨラ城という城に住んでいた。
かつては、それぞれの家が領地をめぐって戦うこともあったという。
また、両者の城の間にある道は、コンポステラの聖ヤコブの聖堂までの巡礼の道であり、二人は幼いころからキリスト教の教えに接する環境にあったといえる。

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