ブログ

佐和山城の徹底的破壊

佐和山城の城跡には、近年、山頂付近で石垣を構成していたと推定される二段の石がわずかに見つかっただけで、それ以外には石垣の痕跡すら見つけるのは難しい。また、近年実施された佐和山城の旧本丸斜面の一部発掘では、石垣が崩され、その後斜面が崩され、石...
ブログ

佐和山城の「城割り」

しかし、逆に、外からよく見えない部分は破却を免れる場合が多く、現在、残っている遺構はそうした部分が多いのだという。これは城を壊すといっても、そこには時間と手間と労力、そして何といっても無駄な金がかかるからなのだろう。だが、佐和山城はどう見て...
ブログ

破城のルール

次の新たな領主が入ってきたとき、領主の交代を領民に示すために前の領主の城を破却することは戦国時代から行われてきた慣習でもあった。その城を壊す行為は「城破り」または「破城」といって、この時代はある意味では一般的に行われてきた行為である。その意...
ブログ

佐和山城本丸の切り落とし

彦根藩が江戸時代に行った『古城山往昔之物語聞書』という「聞書」によれば、「井伊家がこの地を拝領した後、(城を)切り落とした」とあり、続いて「九間(一六・二メートル)切り落としたともいい、七間(一二・六メートル)ともいう」とある。 この聞書に...
ブログ

佐和山城への思慕

城ばかりではなく、佐和山の領民たちは領主である石田三成を慕っていた。 それは一つには三成が領内石田村の生まれで、いわば地元出身の出世頭であったからである。 つまり、三成はいわば故郷に錦を飾る形で地元佐和山の城主となって帰ってきたといってよい...
ブログ

佐和山の破壊(1)

佐和山城は慶長五年(一六〇〇)九月十八日、関ヶ原合戦の三日後に徳川の大軍に攻められ落城している。 このとき、山上にあった天守閣には火がかけられ、その焼ける火は大津あたりまで見えたというから、かなり激しく燃えたのであろう。 私もかつて本丸の直...
ブログ

櫻井教授の見解

私は、当時、絶版になっていた教授の本がどうしても読みたくて、著者である桜井教授に直にお願いして譲ってもらったことがあり、それがきっかけで、以来、何度か博士の自宅を訪れては、貴重な話を聞いていた。 教授はたいへん気さくな人で、筆者のどんな質問...
ブログ

『社頭古絵図』佐和山城天守の鑑定

そのように、両説はそれぞれ一長一短を有しており今でも決定的な決め手はない。  ちなみに、筆者は、『社頭古絵図』から写した天守閣の絵を拡大して、当時、東京八王子市郊外に住んでおられた青山学院大学の故桜井成廣名誉教授を訪ねた。 桜井教授は、かつ...
ブログ

佐和山城天守は想像図か

彦根藩が江戸時代に行った聞書によれば佐和山城の天守は「五重」であったといい、その点が少し食い違ってはいたが、少なくとも、その外観は「大坂の陣屏風」に描かれている大坂城の天守を小さくしたような桃山風のしゃれた建物であり、西明寺のものよりはずっ...
ブログ

「社頭古絵図」の佐和山城

何回かの押し問答の中で筆者がわざわざ東京からこの絵図を見るためだけに神社を訪れたことを知った神官は「負けた」という顔をして、「普段はこんなことは絶対にしないんですが、今回は例外中の例外、本当に特別ですからね。」と何回も念を押して、私を中に案...