彦根山への築城

直政は彦根の地に新たに城を築くことにした。
というより、それは井伊家にとって家康の意を受けたものであった。
直政は当初、新城を佐和山の北、琵琶湖に突き出た磯山に築く予定であったという。そこはかつて戦国大名浅井氏の家臣磯野氏の城があった場所で、要害かつ湖上交通にも便利な湖岸の要衝の地であった。
しかし、直政は、関ヶ原で島津軍から受けた鉄砲疵の悪化により、佐和山入部の翌年の慶長七年(一六〇二)に亡くなってしまい、嫡子の直継が跡を継いだが、まだ幼少であったため、家老の木俣土佐が慶長八年(一六〇三)伏見城に赴き家康に磯山への築城の意向を伝えたという。
木俣が家康に佐和山、磯山、彦根山の絵図を示すと、家康は「磯山よりも、(佐和山城の西南にある)金亀山(彦根山)の方が山麓が湖水に洗われる要害の地であり、金亀山に城を築くべきである。」と言ったという。(『東照宮様御実紀』) 
一方、『木俣土佐紀年時記』は、木俣自身が築城の地としては彦根山が最良の地であることを家康に説明し、家康がそれを了承したため、築城が決まったとしている。
いずれにしても、家康は佐和山城を破城にして、彦根山に城を新たに築くことを命じたのである。

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