佐和山城の「城割り」

しかし、逆に、外からよく見えない部分は破却を免れる場合が多く、現在、残っている遺構はそうした部分が多いのだという。
これは城を壊すといっても、そこには時間と手間と労力、そして何といっても無駄な金がかかるからなのだろう。
だが、佐和山城はどう見てもこの暗黙のルールには当てはまらない。そこでは、外から見える部分も見えない部分も完全に破壊されているとしか思えない。
この「城破り」の好例が、江戸時代、寛永十四年(一六三七)に起こった島原の乱の主戦場となった九州長崎県にある原城である。
この原城は、もともとこの地の領主であった有馬氏が築いた城で、有馬氏が慶長十九年(一六一四)に日向(宮崎県)に移封されると、次の領主の松倉氏により一度「城破り」を受けている。
だが、島原の乱が勃発するとここは一揆の拠点となって島原藩や幕府に強固な抵抗を見せ、幕府軍もこの城を攻めあぐねたことはよく知られている事実である。
ここから、「城破り」といっても徹底的なものではなく、城は修理すれば十分使える状態にあったということが分かる。
この事件に懲りた幕府は、乱を平定した後、原城を今度は徹底的に破壊した。そこでは、主要な石垣を崩し、堀を埋め、その場所をさらに粘土を使って盛土までするという念の入れようであった。
しかし、原城は最近の発掘で天守閣のような大きな櫓があったと思われる櫓台の石垣が出土している。そして、外から見えにくい部分の門があったと推定される場所にも石垣がきちんと残されていたことが分かっている。
幕府を苦しめた原城は二度にわたって徹底的に破壊されたはずであるが、それでも城跡を示す石垣の一部はしっかりと存在しており、城跡が完全に消失することはなかった。
それに比して、佐和山城はどうであろうか。

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