佐和山城本丸の切り落とし

彦根藩が江戸時代に行った『古城山往昔之物語聞書』という「聞書」によれば、「井伊家がこの地を拝領した後、(城を)切り落とした」とあり、続いて「九間(一六・二メートル)切り落としたともいい、七間(一二・六メートル)ともいう」とある。
 この聞書によれば、石田三成が関ヶ原合戦で敗れた後、この地に入ってきた井伊家は彦根城を新たに築くにあたって佐和山城を「切り落とした」というのである。
 この「切り落とした」という表現は具体的に何を指しているのかは当時は分からなかったが、近年、本丸の一部が発掘され、山頂の本丸斜面(石垣の面)が削られ、そこに石垣の裏込の石が埋め込まれていることが判明した。
 いずれにしても、この短い文は井伊家が行った佐和山城破壊のすさまじさを伝えている。
 次の新たな領主が入ってきたとき、領主の交代を領民に示すために前の領主の城を破却することは戦国時代から行われてきた慣習でもあった。
 その城を壊す行為は「城破り」または「破城」といって、この時代はある意味では一般的に行われてきた行為である。
 その意味では、佐和山城が石田三成の後にこの地に入ってきた井伊氏によって破壊されてしまったことは当時としては異常なことではない。

タイトルとURLをコピーしました