破城のルール

次の新たな領主が入ってきたとき、領主の交代を領民に示すために前の領主の城を破却することは戦国時代から行われてきた慣習でもあった。
その城を壊す行為は「城破り」または「破城」といって、この時代はある意味では一般的に行われてきた行為である。
その意味では、佐和山城が石田三成の後にこの地に入ってきた井伊氏によって破壊されてしまったことは異常なことではない。
だが、実際は、城を壊すといっても、通常は建物を壊すか、石垣の一部を壊す程度で、城跡そのものを消滅させるような例などはあまりないようだ。
『城破りの考古学』(新人物往来社)によると、この「城割り」、「破城」には一定の暗黙のルールのようなものが存在しているという。
城は、領民や他の領主に見せるために築かれているという一面をもつ。そのため、城は目立つ場所、眺望のよいところに築かれることが多かった。
だから、城の破壊者は城主が最も領民などに見せたいポイント、外から見て一番目立つ場所を中心に破壊するというのである。
例えば、城の象徴であり中心的建造物である天守閣、櫓、門などの建物はもちろん、外からよく見える場所にある高い石垣を壊したり、土塁なども削り落としたり、目立つ堀なども埋めてしまう。
また、山の上に築かれている山城などでは、樹木までも伐採して、破壊された城内の様子を外から丸見えにするのだという。
こうすることによって、「敗者と勝者が世間に対して降伏、服従を表明し、城地と領主との関係を断ち切る」(同書)というのである。

タイトルとURLをコピーしました