西国大名への監視 彦根城

彦根築城が決まった慶長八年、家康は朝廷より征夷大将軍に任ぜられ、江戸に幕府を開き、新たな武家政権への一歩を踏み出した。
しかし、大坂城には西日本に睨みをきかせているもう一つの権威として豊臣秀頼が健在で、家康が完全に天下を掌握するにはそれは大きな障害であったことはいうまでもない。
九州、四国、中国地方などの西国には今も秀頼をもう一人の主君と慕う加藤清正や福島正則ら大きな領地をもつ豊臣系大名も健在であった。
彼らは、関ヶ原では三成憎しの感情で家康に従ったものの、秀頼にも深く心を寄せており、秀頼が健在である限りこれから家康に完全に従うかどうかは未知数であった。それどころか、今後の豊臣家の出方次第では、徳川家の敵になる可能性もあった。
そのため、その西国大名を監視し、大坂に睨みをきかすためにも、この彦根の地に徳川氏の堅固な城を築く必要があった。
その城は単に井伊家の居城というだけでなく、徳川家自身にとっても軍事上重要な意味をもつものであり、そのために、一刻も早い城の完成が待ち望まれた。
彦根城は慶長九年(一六〇四)から築城工事が開始されたが、城は、近江国周辺の七ヶ国の大名が動員される、いわゆる天下普請で行われた。
また、幕府からも三名の奉行が派遣され、幕府主導で行われた。これ一つとっても、家康が彦根城をいかに重視していたかが分かる。

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