彦根築城

佐和山城は関ヶ原合戦直後に徳川家康に攻められ落城し、山頂にあった天守閣をはじめ本丸内の建物のいくつかは焼失していたが、二の丸、三の丸ら建物施設はそのまま残っていたようで、井伊直政はまずそこに入ったようである。
『古城御山往昔咄聞書集』によれば、佐和山城二の丸には直政の家老の木俣土佐守が、三の丸には中野越後守が入っており、さらに、『淡海古説』には、「直政公が佐和山に御移りになるときに、石田三成時代の二の丸櫓門、櫓、馬屋、薪蔵、廊下、橋など焼け残ったものを修理して」とあり、ここからも、佐和山城は修理すれば使える状態であったことが分る。
しかし、石田色の強い佐和山城を修築してそのまま居城にするなど、井伊氏としては絶対にできなかった。
何より、佐和山城は家康に敵対した石田三成の居城であり、何より石田色の強い城であった。もし、そのまま、井伊家がこの城に居座ったとなると領民は井伊家が石田家を継承したかのごとき錯覚を抱くし、また、領民たちの三成への思慕をいつまでも断ち切ることなどできない。
関ヶ原合戦で家康を亡き者にしようとした石田三成は徳川家にとって悪人であることを強調しなければならない人物なのである。
その城を徳川家四天王の一人とまでいわれた第一の重臣井伊直政が修理をしてその後も使用することなどもってのほかであったろう。

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