『諸国古城之図』の意図

『諸国古城之図』が編纂された時期は広島藩第七代藩主浅野重晟(しげあきら)の治世中、明和二年(一七六五)から寛政十一年(一七九九)と推定され、その当時は、大規模な開発行為が行われた現代とは違い、まだかなりの数の戦国の城跡が残っていたものと思われる。
 そう考えると、この城絵図の作成者は何らかの意図をもって数多の城の中から一七七の城を厳選したということになる。
 それでは、その意図というのは一体何であったのだろうか。
 広島藩第七代の藩主浅野重晟は、軍学の研究に熱心だったとされ、特に甲州流軍学に傾倒し、自ら築城の図面を書くほどであったといわれている。
「諸国に残る武田の城跡を踏査せよ。」
重晟は全国に実際に残る戦国の城跡を軍学者にくまなく調査させ、それを絵図にして、軍学、特に甲州流軍学の教材とし、研究にいそしんでいたのである。
『諸国古城之図』はそんな甲州流軍学を学ぶための教材であり、そこでは武田氏に関係する城の絵図が多くなったのは必然であった。

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