『浅野文庫諸国古城之図』

しかも、上杉家の後継争いでは、同盟者であった北条氏を支持しなかったため、それが原因で北条氏との同盟も破棄されてしまう結果になった。北条と上杉をはかりにかけたとき、今や上杉家は謙信時代とはほど遠い一地方勢力となり下がり、それは北条家との比ではなかった。
その矢先に高天神城への救援の失敗である。
「もう武田家は終わりじゃ。我らはこれ以上勝頼様にはついていけぬ。」
勝頼はやることなすことが裏目に出て、家臣の信頼を失いつつあった。そんなとき、信長の足音は一歩一歩確実に近付いていた。
 勝頼は起死回生の残された唯一の手段として新府城の完成を急いだのである。

 さて、「甲斐新府城」の絵図は、『浅野文庫諸国古城之図』に収められているといったが、『諸国古城之図』が収められた『浅野文庫』はその名のとおり、芸州(現在の広島県)広島藩浅野家に伝わる諸文献を集めたものである。
浅野家は江戸時代、安芸広島城を居城とする四十二万石の大名で、この広島の分家が忠臣蔵で有名な播州赤穂の浅野家である。
 この『諸国古城之図』には、新府城をはじめ一七七の戦国時代の古城跡が絵図として収められている。
一七七というと、かなりの数だと思いがちだが、実はこれは戦国時代の城の一割どころか一分にも及ばない数である。
戦国時代の城というのは、江戸時代の大名の居城のような高い石垣も大きな水堀もない、土作りの城が大半で、イメージとしては砦のようなものであった。そのため、後の石垣作りの城と比べて城を築くための土木量はずっと少なく、築城期間も短いため、相当数の城が築かれていた。
近年の調査によると、小さいものまで含めると都道府県一県あたり数百はゆうに築かれていたようである。
以前、筆者は長野県佐久の埋蔵文化財研究所を訪れたことがあるが、そこの担当者によれば、「佐久では視界に入るすべての山の上に城跡があります。」と言いわれたことがある。
その意味からすれば、『諸国古城之図』に収められた一七七という数は決して多くはない。
いや、少ないとさえいえる。

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