一幅の城絵図がある。
それは、江戸時代に作成された古絵図で、鮮やかに施された彩色が今も色あせることなく残っている。古図は台地の南方に周囲を山に囲まれた一つの城を描いている。
 その城絵図は『浅野文庫諸国古城之図』という城絵図集に収められているもので、そこには「甲斐新府城」と記されている。
 「甲斐」とは現在の山梨県、そして「新府城」とは山梨県韮崎市の「七里岩」という文字通り岩盤が切り立った台地上に築かれていた戦国時代の城のことである。
 この「甲斐新府城」の築城者は武田勝頼。
名将武田信玄の跡を継ぎ、やがて武田家を滅亡させてしまうことになる悲運の武将である。勝頼は天正九年(一五八一)にこの城を築き、躑躅ヶ崎の館からここに移っている。
 武田信玄が侵略地である信濃(長野県)、西上野(群馬県西部)、駿河(静岡県西部)、遠江(静岡県東部と愛知県の西部)にたくさんの城を築いていたことは先に述べたが、信玄の後継者であった勝頼も侵略地である駿河や遠江に数多くの城を築いている。
城の構造の進化という点から見ると、武田氏は勝頼の時代にそのピークを迎えていると思われるが、それはそのまま勝頼の勢いを表している。
勝頼は信玄の跡を継ぐと果敢に遠江(静岡県東部と愛知県の西部)に攻め入り、家康、信長を脅かしていた。
その勝頼が最後に築いた城、それが新府城である。
しかし、武田家はこの城の完成から四ヶ月後に滅亡している。
その意味では、新府城は武田家最後の城であり、武田勝頼が最後の渾身の力をこめて築いた城であるともいえる。