四面楚歌の勝頼

新府城を築いたころの勝頼は、織田信長・徳川家康はいうまでもなく関東の北条氏までも敵に回すという四面楚歌状態であった。
勝頼は天正三年(一五七五)長篠の合戦で信長とぶつかり、そこで信玄以来の名だたる家臣を死なせ大敗していた。
だが、武田家はそれが原因で滅亡したわけではない。勝頼はその後七年も領国を保持し、信長とその同盟者の徳川家康を退けているのである。
 それは一つには、信長が将軍足利義昭と連携する中国の毛利氏、さらにはその応援を受けて信長に敵対する大坂の石山本願寺を攻めあぐみ、武田勝頼にその矛先を向けることができなかったことも原因であろう。
 しかし、天正八年(一五七七)信長は本願寺と和議を結び、長年の宿敵との戦いにピリオドを打つと、武田勝頼を攻めるため着々と準備を開始した。
 そんな中、徳川家康は天正九年三月、勝頼の遠江(とおとおみ)(静岡県西部)における一大拠点である高天神城を包囲し、終に落城させることに成功した。

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