西軍、関ケ原への移動の理由

小早川秀秋は、関ケ原合戦の前日、松尾山城で守備をしていた大垣城の伊藤盛正とその兵を追い出す形で松尾山に入城した。
通説では、三成らが十四日深夜に大垣城を出て関ヶ原に移動した原因が、去就が疑われる小早川秀秋が最重要の松尾山に入ったことから、大谷吉継を救援するためであったとされている。
これは、関ヶ原合戦二日後の十七日付の吉川広家の書状案で「秀秋の逆意がすでにはっきりした、そのために大垣衆も山中に移り、大谷吉継の陣が心配なため引き取った」とあることがその根拠になっているものと思われる。
だが、もし、そうであるなら、石田三成らは小早川の松尾山城を取り囲むような布陣を取ったと思われるが、実際の布陣は中山道、北国街道を封鎖するための整然とした布陣が取られている。
『黒田家譜』には、「海道をさしふさぎ、西国・北国の往来を打ちとどめ」とあり、三成らの布陣はまさに二つの主要街道を封鎖するためと認識されていたことが分かる。
ここからは、関ヶ原への移動はあらかじめそこに築かれた要害陣地によって徳川軍を迎え撃つことにその目的があったものと思われる。

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