松尾山城への入城自体が大坂方(三成方)への敵対行為

関ケ原合戦の前日、9月14日、松尾山に布陣している秀秋の重臣平岡頼勝・稲葉正成に宛てて井伊直政・本多忠勝から「家康に忠節すれば、今後ないがしろにすることはなく、上方で二か国の領国を与える」という起請文が出されていることから、平岡頼勝・稲葉正成と井伊直政・本多忠勝との間で事前に家康に忠節を尽くすという旨の起請文が取り交わされていた可能性が高い。
それは少なくとも14日以前であったことは間違いない。
家康方との交渉は、秀秋と黒田・浅野から、それぞれの重臣平岡・稲葉と井伊・本多のラインで28日以降に進められていたのである。
ここから、小早川は家康方に付くことを前提に松尾山に入ったことが考えられる。
そうであれば、松尾山城への入城自体が大坂方(三成方)への敵対行為そのものだった。
その布陣は、三成が関ヶ原に築いた防衛線、特に中山道の封鎖(山中村の隘路、大谷勢)を切り崩すことを目的としたことになる。
ただ、そうだとしたら、一つ問題が残る。
それは、小早川が合戦当日大坂方へ攻め入ることを決めていたとしても、その順番は松尾山上からではなく、山麓の部隊から動き始まるということである。
そこでは、山麓に布陣する脇坂の部隊の動向にかかってくるのである。

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