8月末の小早川秀秋の動向

この8月28日時点においては、小早川はまだ徳川方につくとのはっきりした意思をもっていなかった可能性は高い。
伏見城攻めにおいて、小早川は伏見城に近い醍醐寺に唯一禁制を出していることから、彼が主将格の一人であったことは間違いない。(『小早川秀秋』)
また、先の越前の状況においても小早川は主将として扱われており、少なくとも大谷吉継は8月26日の時点では小早川に疑念をもっていたとは思えないのである。
28日付の書状では、秀秋の養母である北政所(秀吉の妻お寧)の名を出し、家康方に付くことが北政所に忠節を尽くすことだとし、黒田長政らはまさにあの手この手をつかって説得を試みていることが分かる。
裏を返せば、この時点では徳川方ではなかったのである。
小早川軍は一万五千を率いる大軍である。
さらに、秀吉の甥でもあり、豊臣一族としての筋目もいい。
家康方に寝返ったときの、大坂方への精神的効果ははかり知れないものがある。
小早川の調略は家康方にとって重要であった。
この28日の書状に対して、秀秋がどのような返事をしたのかは分からない。
そして、また、これ以降、黒田・浅野から秀秋に書状が送られた記録などは見当たらない。

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