小早川秀秋にジャックされた松尾山城

そう考えると、松尾山城には西軍の総帥毛利輝元、そして輝元が擁する秀吉の遺児で主君の豊臣秀頼を入れるつもりであったのではなかろうか。
松尾山城に西軍の総帥である毛利輝元と主君豊臣秀頼が入れば、家康に従って来ている豊臣系大名は西軍に手出しなど絶対にできない。
また、家康自身も西軍と戦うことは主君秀頼を相手に戦うことになり、それもできなくなるはずである。
そこにこそ、石田三成の描く関ヶ原での最大の作戦はあったのではないか。
まさに、松尾山城は西軍にとって錦の御旗、VIP豊臣秀頼を迎えるシンボルとなるべき城であったのではないか。
しかし、安国寺の報告から西軍の劣勢を知った毛利輝元は三成の再三の出馬要請を蹴って、大坂城を出ることはなく、結果として、輝元も秀頼も関ヶ原に来ることはなかった。
そして、その間隙をぬって小早川秀秋が松尾山城を西軍の手からジャックして入城したのであった。
ここにきて、三成らの計画に大きな狂いが生じることになった。
関ヶ原の防衛線の要ともいうべき松尾山城が向背分からない小早川秀秋に奪われてしまったのである。
大谷吉継はこの事態をすぐに大垣の三成に連絡した。
三成は至急に松尾山の小早川対策を迫られた。
西軍が大垣城から関ヶ原に移動したのは、小早川が松尾山に入ったまさにその日の深夜であった。
ここから、関ヶ原の状況は大きく動いていった。
しかし、小早川はなぜ合戦の前日に、急遽、留守番をしていた西軍の兵を追い出してまでも、強引に松尾山に入ったのか?
なぜ、松尾山でなければいけなかったのか?

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