一体化していた松尾山と山麓脇坂陣

関ケ原合戦の前日14日に松尾山に小早川軍が入ったことで、脇坂の立ち位置は決まった。
そこでは、必然的に脇坂が戦場で背信行為を行い、家康方として戦わざるを得ない状況が出来上がってしまったのである。
脇坂の陣として伝えられているのは、松尾山の山麓であり、小早川側からわずか数十メートルしか離れていない。
大きな声を出せば、十分に聞こえる距離である。
松尾山麓には切岸状の遺構が今でもあちこちに見られ、麓にも小早川勢が布陣していたことが読み取れる。
おそらく小早川勢の布陣後は、互いに会話を交わしたことだろう。
この両者のあまりにも接近した布陣は果たして偶然なのか、
それとも事前の打ち合わせがあったのか分からないが、いずれにしても、関ケ原合戦の前日14日時点で一体化していたことを示している。
確実なことは、脇坂は大谷と一緒に関ケ原決戦12日前、9月3日の時点で関ヶ原に入っているということ、そして小早川は合戦前日の14日に松尾山に入っているという事実である。

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