関ケ原直前の小早川秀秋の動向

関ケ原合戦の前月、八月二十二日付佐々正孝が出羽の秋田実季に宛てた書状の中によれば、大谷吉継らは、前田利長の軍勢を防ぐべく越前木の芽峠に砦を築いて、小早川秀秋を城主として守らせるつもりであるとある。
ここから、小早川秀秋は、越前方面の防備に主将としてつくことになっていたことが分かる。
事実、二十六日にはそこへ向かうことになっていた。
ここでは、小早川軍は西軍の一画として重要な任務を与えられていたことが分かる。
しかし、美濃の情勢の悪化により、大谷吉継は急きょ美濃に向かうことになり、それに伴って、小早川も美濃に転進し、最後は近江柏原まで兵を進めたのであった。
八月二十八日、その秀秋のもとに美濃岡山の東軍陣地にいる黒田長政、浅野幸長から家康方に付くよう書状が届いた。
そこには「重ねて申し入れた」とあることから、以前にも彼らからの調略の書状が届いていたことが分かる。
しかし、秀秋はそれに対してはっきりした返事をしなかったのであろう。

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