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川中島合戦雑記39(武田信玄の海津城築城構想①)

海津城は千曲川河畔、現在の長野市松代町に築かれた平城である。 今でこそ、千曲川は城から七〇〇メートルほど北西を流れているが、かつては城に接するように城のすぐ北東を流れていた。 この城は広大な川中島の経営にあたる拠点、政庁として、また、越後軍...
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川中島合戦雑記38(謙信の挑発に乗らなかった信玄)

信玄は謙信から「実の父親を追放し、浪人乞食の身に追いやっている」という非難を受けているが、信玄の父信虎は今川家では客分としての扱いを受けており、特に不自由な生活を強いられてはいなかったようである。 さらに、信玄も今川氏には父を面倒見てもらう...
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川中島合戦雑記37(願文で信玄のパワーを奪おうとした謙信)

謙信は、また、川中島の合戦に際して、川中島八幡の更級八幡宮と越後蒲原郡弥彦神社に信玄に対する願文を捧げている。 更級八幡宮へは弘治三年(一五五七)一月二十日に願文を捧げているがそれには「信玄が信州に乱入し、神社仏閣を壊し、国中の人々を悲嘆に...
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川中島合戦雑記36(神仏パワーの争奪に勝利した信玄)

信玄は、その後、善光寺のみならず飯綱社や後には戸隠社まで手に入れ、合戦の勝利と武運長久を祈らせてた。 考えてみれば、信玄が家督を継いで最初に行ったことは諏訪の支配であった。 信玄は諏訪氏を攻め、滅亡させると直ちに諏訪大社を支配下におき、そこ...
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川中島合戦雑記35(善光寺そのものを甲斐に移した信玄)

『甲府善光寺建立記』によると、信玄は川中島からの撤退に際して、本尊善光寺如来をはじめ寺内にあった諸仏を持ち去り、はじめ佐久郡禰津村(東部町)に移し、永禄元年(一五五八)甲斐上条村法城寺に移し、それから甲府の仮屋に移し、永禄八年(一五六五)に...
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川中島合戦雑記34(善光寺から戸隠へのルート葛山城を落とした信玄)

信玄がターゲットとした葛山城は善光寺の背後にあって、善光寺から戸隠を経て越後へ通じる街道を押さえる要衝に築かれおり、ここを抜けば、飯綱・戸隠社はもとより、越後への侵入も可能になり、謙信に大きなダメージを与えることは必定であった。 信玄は雪に...
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川中島合戦雑記33(善光寺本尊を持ち帰った信玄)

このような状況を見かねた駿河(静岡県)の戦国大名今川義元が両軍の仲介に入り何とか和議を結ぶことで決着がついた。 こうして、閏十月十五日、両軍は川中島から撤退した。 しかし、善光寺を支配する栗田氏が武田方についたことから大きな危機感をおぼえた...
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川中島合戦雑記32(第二回川中島合戦は善光寺の争奪戦)

旭山城は善光寺のすぐ西にそびえる旭山山頂に築かれていた城で、そこから善光寺、さらには謙信の本陣横山城をその眼下に見下ろすことができた。そのため、謙信にとっては戦術的にも大変に目障りな城であった。 その意味で信玄はまさに謙信の裏をかいたともい...
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川中島合戦雑記31(謙信と信玄の善光寺争奪戦1)

そのため、善光寺のもつ大きなきな影響力を背景に、善光寺の付近には後庁という信濃国府の支庁が置かれるようになり、政治的色彩を帯びるとともに、この地は北信地方の中心地ともなっていったのである。 このように、善光寺は全国の阿弥陀信仰の総本山として...
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川中島合戦雑記30(源頼朝・北条氏が尊崇した善光寺)

善光寺の歴史は古く、境内から出てきた最も古い瓦が法隆寺形式といわれるものであるころから、その創建は少なくとも奈良時代以前にはさかのぼるものと推定されている。 善光寺は当初は大陸から帰化人が持って来た仏様を安置する寺として出発したようで最初は...