義経の戦い(飢餓と疫病の時代3)

この状況を知った義経は自ら平家追討に乗り出すことを決意した。
義経は当時頼朝から都の守護を命じられていたが、後白河法皇に嘆願して許しをもらい単独で平家追討に向かったのであった。
義経が摂津(大阪府)渡辺の津から船で四国に渡ろうとしたとき、激しい暴風雨で船の多くが破損し、兵士は船を一艘も出そうとはしなかった。
だが、義経は「朝廷から平家追討の命を受けた追討使が例えしばしの間にしてもここで渡海を待つのはどうか。風波の難など問題にすべきではない!」(『吾妻鏡』)と渡海の強行を主張し、風雨の中、船を出した。
義経は、平家追討の志の強さ、そしていかに困難があろうともそれを必ず成し遂げるという並々ならぬ決意を兵士たちに見せたのである。
義経はこの後、四国屋島で平家軍を破り、やがて平家を壇ノ浦に追い詰め、最後の決戦を挑む。
ここでは、義経の即戦速攻が功を奏し、平家は壇ノ浦において滅ぶことになる。
義経は都を出てから、わずか三ヶ月で平家を滅ぼすという離れ業をやってのけたのである。
だが、なぜ、義経は頼朝の命を無視してまでも、一人平家追討に走ったのであろうか。
宮田敬三氏は「屋島・壇ノ浦合戦と義経」(吉川弘文館『平家物語を読む』所収)の中で「義経は自らの決断により短期決戦で平氏追討を終結させた。これは、内乱の終結を願う人々の願いを叶えるものであった」としている。
義経はこの戦の背景にある、飢饉・疫病による民衆の疲弊を人一倍強く感じていた。
それは、自らが進んで兵糧の停止を行おうとしていたことからも明らかであろう。
もし、このまま戦が長期間続けば、さらに諸国は疲弊し、民百姓の嘆きは収まることはない。
義経は自ら戦を早期に終結させることで、それに歯止めをかけようとしていたのではなかろうか。
『平家物語』は義経を「情け深き人」と評する。
また、京都の公卿九条兼実も「義士というべきか」とその日記『玉葉』に記している。
義経が後世「判官びいき」とされる所以もそこにあったのかもしれない。
義経が時代の中に見たもの、それは飢餓と疫病に苦しみ抜く数多の民衆の姿であった。
ゆえに、彼は平家との合戦を早期に終わらせることで、その解消をはかろうとしたのではなかろうか。

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