義経の戦いー飢饉と疫病の時代2

当時の記録『方丈記』によれば、「春・夏は日照り(干ばつ)、秋には大風、洪水が発生し、五穀がことごとく生産できない。これによって、国中の人々は土地を捨てて、国境を出、家を捨てて山に住む。乞食は路のほとりに充満し、嘆き悲しむ声が消えることはない。(中略)今年はそれに加えて疫病までが蔓延している。築地の前や道のほとりには飢え死にする者が数を知らず、それを片づける者もいないので、悪臭が満ちている。」と記されている。
飢饉、疫病が蔓延するこの悲惨かつ凄惨な時代状況の中で、平家と源氏の戦いは繰り広げられていたのであった。
事実、この状況下で平家は、源氏との戦を継続できず、しばらく休戦状態に追い込まれている。
それは源氏軍も同様で互いに合戦の兵士を支える食糧、つまり兵糧の不足はいかんともしがたかった。
『平家物語』には「諸国七道の人民・百姓等、源氏のために悩まされ、平家のために滅ぼされ、家かまどを捨て山林に交わり」とあり、合戦の間にあって塗炭の苦しみを味わねばならなかった民衆の姿が描かれている。
このとき、諸国では土地を捨てて逃げ出す百姓が相次ぎ、田畑は荒廃し、戦争のための食糧を出す余裕などどこを探してもなかったのである。
治承三年(一一七九)、朝廷は打ち続く大飢饉で疲弊する諸国の救済のため、兵糧米の停止を命じる宣旨を出した。
まさに、そこでは合戦などできる状況ではなかった。
源氏方の記録『吾妻鏡』には「平家追討のために赴いた東国武士たちが船もなく、兵糧も絶えて、合戦をする術を失っている。(中略)兵糧が欠乏しているため、武士たちの心が一つにまとまらず、それぞれ本国を恋しく思い、過半の者が逃げ帰りたいと思っている」と平家追討に向かった源範頼軍の状況が述べられている。
慢性の兵糧不足は範頼軍の戦う意欲さえも奪っていた。
こんな状況で平家と戦っても成果など上げられるはずはない。

タイトルとURLをコピーしました