川中島合戦雑記41(海津城築城構想3)

だが、それらの街道、峠を扼す場所には海津城築城以前にすでに城が設けられていた。
例えば、海津城の東の標高七八一メートルの尼飾山山頂には東条氏の築いた尼飾城が、そこから二百メートルほど下った西北の山に寺尾氏の寺尾城とその支城、金井山城がそびえており、それらは当初から北国街道候可峠を監視する関所のような役目を担っていたものと思われる。
かつてそこに城を築いた領主たちは、村上氏時代、街道、峠の監視を行うとともに、そこを通行する旅人からあるいは関銭のようなものを取り、収入源としていた可能性もあろう。
同様、海津城の西の山にも標高六九五メートルの鞍骨山山頂にかつての清野氏の本城鞍骨城とその支城の天城城、山頂から東に派生する尾根上には西条氏の西条城(竹山城)、山頂西の尾根上には雨宮氏の雨宮城(唐崎城)、西南には倉科氏の鷲尾城が築かれていた。
それらの城もそれぞれ街道を扼す地点に築かれていることから、村上氏の支配下のもとで街道、峠の監視を行っていたものと思われる。
そこでは、西条城は北国街道支道の多田越えを監視し、天城城と雨宮城は同じ支道の清野から妻女山を抜け雨宮に至る道筋を監視していたものと思われる。
さらには、それら西の山の尾根筋に築かれた城全体を統括する本城ともいうべき城が一族の要であった清野氏の本城鞍骨城であった。
そのためこの城はそれらの山系の最高所に築かれていた。

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