義経の戦いー飢餓と疫病の時代①

壇ノ浦
本州の最南端下関と九州の玄関門司との間にある「関門海峡」。その最狭部は「壇ノ浦」と呼ばれ、その幅は約六五〇メートル。川幅に等しい狭さでしかない。
だが、この壇ノ浦は今も海が「ごうごう」と音を立てながら激しく流れており、海というより、川の激流といった方がよいくらいである。
この壇ノ浦の水深は約二〇メートル、潮流は最高八ノット、満潮時には一・六メートルもの水位差を生じ、潮の動きは複雑で、今も馬力のない船は乗り切れないほどの難所であるという。
この狭い海峡で文治元年(一一八五)三月二十二日に源氏と平家の最後の決戦が行われた。
源氏の大将源義経は軍船八百四十艘あまりを率い、平宗盛率いる平家軍も軍船五百艘あまりを率いてこの壇ノ浦にやってきた。
しかし、なぜ、両者はこの激流の海で激突せねばならなかったのであろうか?
壇ノ浦は当時も海の危険区域であり、そこで多くの軍船を動かすこと自体無謀といわざるをえない。
おそらく、そこでは、この激しい海の流れを知悉した源平両者のプロの船団同士による戦が繰り広げられていたはずである。
そう考えれば、その勝敗を決したのは巷間伝えられるような潮の流れだけではなかったのではなかろうか。
義経が平家との決戦を急いだのには理由があった。
 

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