関ケ原合戦直前の家康④

このとき、家康は豊臣政権大老筆頭として、大坂城にあって秀頼を補佐し、天下の政務を執っていた。この事件は上杉征伐の直前であるが、家康の頭の中は、当面の上杉攻めに加えて、これからいかに日本の舵取りを行っていくかという責任感にあふれていたといえる。
秀吉の行った朝鮮出兵により、百姓など朝鮮に徴兵された兵士は餓死と病、さらには戦で数多くが命を落とし、結果、国内の村々は疲弊し、国土田畑は荒廃、戦略物資供給のため、国内では物資の流れも停滞し、経済は大きく混乱していた。
さらには、朝鮮、中国をはじめとする東アジア諸国との外交が断絶したことから、貿易による輸出入が不能となり、国内の物流にも大きな弊害をもたらそうとしていた。
ここにおいて、早くに政権を安定させ、朝鮮、明国、さらには東アジア諸国との外交を復活させることは何より緊急の課題であり、さらに戦争に伴う人と物資の過酷な収奪により疲弊した国土、村々の立て直しも急務となっていた。
事実上、国家を預かる豊臣政権としては解決せねばならない問題がすでに山積していた。
もし、このまま国力が低下していけば、東アジアの覇権を狙うスペイン、ポルトガルに付け入る隙を与え、日本の植民地化へとつながる危険性をも招く事態になりかねない。
そんな危機的な状況を誰よりも感じ取っていたのは豊臣政権大老筆頭の徳川家康であった。
家康は石田三成ら奉行たちが主張する太閤秀吉の決めた置目を遵守することより、自らが政権の中枢となり、強力なリーダーシップを発揮し、国家の舵取りを行うことが国を立て直す一番の早道であると考えていた。
ここにその後の関ヶ原合戦が引き起こされる必然性があった。

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