関ケ原合戦直前の家康⑤

家康は会津征伐のため、6月16日に兵を率いて大坂を発ったが、「リーフデ号」にも堺を出帆させ、相模の浦賀まで渡航させた。浦賀に着くころには、家康はすでに江戸に入っていた。
この浦賀への移動の理由は船に搭載されていた武器を会津討伐に使うためであったと推測されている。
このとき、家康は豊臣政権大老筆頭として、大坂城にあって秀頼を補佐し、天下の政務を執っていた。
この事件は上杉征伐の直前であるが、家康の頭の中は、当面の上杉攻めに加えて、これからいかに日本の舵取りを行っていくかという責任感にあふれていたといえる。
この三ヶ月後、家康は美濃関ヶ原で秀頼を中心とする豊臣体制維持の奉行派を打ち破り、権力の独裁化に向けて大きく前進することになる。
家康の目指す課題の一つは、秀吉の出した「伴天連追放令」で後退したヨーロッパ諸国、スペイン・ポルトガルとの関係をどう復活させるかにあった。
その一つが、スペイン人が運航するマニラ船の関東誘致であった。
家康は江戸湾にスペイン船を誘致し、本拠地江戸を国際貿易都市にする構想を持っていた。
家康は秀吉が亡くなった1598年、堺の商人五郎衛門をマニラに派遣し、翌年にも堺のキリシタンで商人の伊丹宗味、その翌年にもフランシスコ会宣教師を使者として派遣し、スペイン船の関東入港を促していた。
家康は、マニラのスペイン人が毎年浦賀に来航して貿易をすること、日本人もメキシコに赴いて通商をすること、その航海用の船を造るために技術者や職人を派遣してほしいとフィリピン総督に要請した。
国内ではすでにイエズス会宣教師により、ポルトガル船による貿易が九州を中心に行われていたが、家康はマニラを拠点とするスペイン系のフランシスコ会宣教師を利用してマニラと関東との交易を開こうとしていた。
さらに、家康はポルトガル・スペインに遅れて日本にやってきたオランダ・イギリスとの関係も先のリーフデ号事件を通して模索していた。
関ケ原直前の家康は、すでに秀吉に代わる国家構想を描いており、豊臣政権の延命を至上目的とする奉行たちとの間には大きな齟齬が生じていた。
家康は自身が権力を握る以外に、秀吉の負の遺産を解消し、新たな国家作りはできないとの確信があったに違いない。

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