関ケ原合戦直前の家康③

家康は宣教師の布教活動とスペイン・ポルトガルの帝国主義が一体となって繰り広げられているという事実を確認することが出来た。
これに危険を感じたポルトガルのイエズス会宣教師たちは「彼らを処刑すれば、オランダ・イギリスの海賊は恐れて日本に来ないでしょう」と訴えたが、家康はそれに耳を貸さず、「彼らは自分、もしくは日本の誰にも危害や損害を与えておらず、彼らを処刑するのは道理に反する」とした。
二回目の尋問の数日後、家康は大坂城を発って伏見城に入り、京都で朝廷主催の山城豊国神社参詣に赴き、京都の相国寺を訪問した後、四日後、大坂城に戻った。
そこで、上洛命令に対する会津の上杉家の返答を待つと同時に会津討伐の準備を進めた。すでに、関ヶ原合戦へのタイムラグは始まっていた。
家康は豊後に停泊していた「リーフデ号」を堺まで移動させ家康自身が堺に赴き、多くの大砲や武器、毛織物などを検分し、それらを売却させた。
こうして、アダムスらは41日間、大坂城で家康から尋問を受け、家康は数多くの質問をしたが、それが終わるとアダムスたちを船に帰した。
彼らが船に戻ると、船員のすべての持ち物が持ち去られていた。
航海用道具、本などもすべてなくなっていた。これを知った家康は盗難品の返還を命じたが、戻って来ることはなかったので、盗難品の代償として現金で5万レアル銀貨を支給した。これは現代の価格で八億円に相当するという。
家康は会津征伐のため、6月16日に兵を率いて大坂を発ったが、「リーフデ号」にも堺を出帆させ、相模の浦賀まで渡航させた。浦賀に着くころには、家康はすでに江戸に入っていた。
この浦賀への移動の理由は船に搭載されていた武器を会津討伐に使うためであったと推測されている。

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