宣教師の見た秀吉②

フロイスは秀吉が信長の天下を簒奪したことについて「がぜん過去の仮面を捨て、以後は信長のことには何ら構わぬのみか、為しえること万事において信長を凌ぎ、彼より秀でた人物になろうと不断の努力をした。彼は安土山にいた信長の孫にあたる少年(三法師)を同地から追い出し、地位も名誉もない一私人としてある田舎に留めしめるように命じ、彼が後に天下の主に取り立てられる希望をまったく断たしめた」
「傍若無人にして傲慢なあらわれとして、信長が六年間包囲した大坂の地に、別の宮殿と城郭、ならびに新市街の建設を開始した。それはその地が目的に適合していたために、建築の華麗さと壮大さにおいては安土山の城郭と宮殿を凌駕した」と述べている。
当初、秀吉はキリスト教布教については寛大な姿勢を示していた。
信長死去の翌年天正十一年(1584)九月、宣教師オルガンティーノが大坂に秀吉を訪ね、新しい教会を建てる地所を願い出ると秀吉は「伴天連らが遠国からはるばると教えを説くために渡来した辛酸労苦は非常なものだ。伴天連の望みを叶え、極上の敷地を進ぜよう。その地は他の大勢の者に断ったところだ。申し出た教会についても、何びとの妨げも受けず、随意に建設することを許可しよう」と述べている。
このころ、キリスト教信者は全国で八千名を超え、秀吉の周囲、北政所の侍女にもマグダレナという信者がいたことが分かっている。

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