家康の大坂城入城と毛利への仕置き。

九月二十五日、家康は大津を発ち、二十六日山城淀に到着し、二十七日大坂城に入った。
他の説では、二十七日大津を出、淀に着き、二十八日大坂西の丸に入り給う。秀忠君も二十七日、大坂へ入城されたとある。

『慶長記』
「二十六日午時(12時ころ)大坂へ着御。秀忠公も午時過ぎに着御。家康公すぐに秀頼公へ御対面。西ノ丸へ御帰着。秀忠公は千畳敷のある御殿へ渡御。」

『関ヶ原御陣之図及略記』
「二十九日、大坂西ノ丸へ御入城、禁裏より勅使下向、朝敵追討の御叡慮、摂家・清・花・諸門跡、五畿内遠境貴賤・僧俗参り集まり、進物昼夜引きもきらず」
こうして、毛利が退城後の大坂城に再び家康が入り、嫡子の秀忠も続いて入った。
そこには、朝廷や公家から戦勝を祝う使者が大勢押しかけ、昼夜、引きもきらないほどであった。
もし、関ヶ原で石田三成らが勝っていたら、この光景はまったく違う様相を呈していたことであろう。
歴史とは、まったく、何がどうなるかは分からない。
一寸先は闇なのである。

毛利への仕置き
十月二日、黒田長政は、吉川広家に輝元の罪を述べ、広家の功に対しては、一二ヶ国の領地安堵を洩らした。
「輝元の身上のことであるが、福島正則によれば、奉行どもと一味になって、西ノ丸に移ってからは諸方に廻状の数々にご自身で判を押され、なおかつ四国に兵を入れたことは明白である。だが、あなたが律儀であることは、井伊兵部が取りなしたので、中国で一二ヶ国下さることであろう。この上は家康様が直々にお墨付きなされるであろう」

今度はいったん領地を安堵すると言った毛利輝元に、大坂方への廻状の存在が露見したので、領地を没収する旨が伝えられた。
毛利はそんな明確な証拠を大坂城に残して退城したのであろうか、それとも、それを受け取った大名が家康方にそれを渡したものか。いずれにしても、そんなことはとっくに分かっていたはずであり、今更という印象が否めない。
家康はそれが後から出てきたという体裁を取って、約束を反故にしたのだ。
初めから領国安堵などするつもりはなかったのである。

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