家康重臣伊奈図書の切腹

『関ヶ原御一戦記』
十九日家康、大津着陣。京に関東勢が洛中に乱入するという噂が流れているので、皆が迷惑しているという報告が入り、家康は伊奈図書を三条の橋へ遣わせ、矢来・木戸を作らせ、番所に兵士を置き、洛中へ入り込む者どもを改めさせた。
だが、そのとき、大政所(?)が見舞いとして、黒田長政を同道させて、福島刑部(正則の息子)を入洛させようとした。するとこの番所で口論となり、刑部は佐久間嘉左衛門に打ち破られた。父である福島正則は大いに腹を立て、佐久間嘉左衛門を切腹させるべきと大津三井寺の本陣に申し遣わし、是非、伊奈図書を御成敗いただきたい、そうでなければ倅の刑部は頭を剃り、高野山へ登り、この正則は切腹仕ると申し上げた。かの図書は家康の重臣であり、色々御思案されていたが、福島はいよいよ腹を立て、手切れにもなる様子はないので、池田輝政が御意見を申し上げ、図書は切腹仕り、この件は落着した。

家康は関ヶ原直後のここにきても、豊臣大名福島正則の機嫌を損ねることを極端に警戒していた。
それが、京都三条の関所の争乱での伊奈図書の切腹につながった。
家康は信頼する伊奈図書をこんなことで失いたくはなかったが、今は福島の言うことを聞くしかなかった。

『関ヶ原記』
九月十九日早朝、内府様は守山を御発ちになり、御上洛なされるところへ、江戸中納言秀忠が信州より御上りなされた。草津の宿で御対面なされた。家康公は早速の参上の段、祝着これに過ぎずと申された。(中略)秀忠公は今度凶徒御退治の段、まずもって目出度く存じますと申された。家康公も満足され、醍醐まで出陣しなければならないので、それに先立って上洛されよとのことであった。家康公は、大津の三井寺に本陣を置いおられるが、逢坂の関を守らせ、往還を改め、所々の備えを固くするよう諸大名へ仰せ付けられ、しばし休息なされた。

ここでは、家康は「祝着これに過ぎず」と秀忠との対面を喜んだように描かれているが、真相は、複雑な思いであったに違いない。
秀忠さえ、関ヶ原に遅れることがなかったら、福島らに多くを頼ることはなかっただろうし、彼らに大きな所領を与えることもなかったはずであった。
その意味で、秀忠の遅参が豊臣大名の領地拡大につながり、長きにわたって外様大名を警戒せねばならない原因を作ったともいえる。

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