大津城総攻撃

『慶長記』
「大津の城へ渡御、城中家共は、敵攻め火矢の用心に、屋根をまくっていたので、南の門脇の長屋に御座成られた。・・・大津の町は焼き払われ、小屋もなし、苅田を諸人が行ったので、瀬田の近辺より、三井寺辺りまで田を刈り取り、この節は諸大名・諸侍、醍醐・山科辺り、夜は六七万人陣を取り、山科に関を置かれ、京都へ罷り通ることはご法度で、関守三人仰せ付けられた。伊奈図書・近藤登之助・加藤源太郎である」

『慶長記』
「大津の城に御座なされたが、大津の城は南の方に多聞作り五十間(90メートル)ばかりもあろうか。下は水堀、石垣を見れば、鉄砲の弾が貫通した跡が一つある。この多聞作りだけでも、五、三日は城はもつであろう。昔の名城はいずれも粗末なもので石垣などはない。城主良ければ、良くない城でも名城になる。いかに要害が優れていても城主がしっかりしていなければなどと独り言を言ったが、誰も応えるものはいない。御そばに小姓衆が五、六人いる。大津の城の三の丸の塀は鉄砲で撃ち尽くされ無残である。二の丸に松の丸殿の御家がある。火矢の用心に屋根をまくり、鉄砲の音に女房衆驚き、日夜泣き悲しむことは夥しかった。城が危うくなったので、松の丸殿を京都に移したそうだ。大津城が攻められるのを、京都の町人たちは、酒、重箱、水風呂をもって、三井寺の観音堂で怖がることもなく、毎日見物していた。十六日に城を明け渡し、京極宰相殿は高野山に入られた。十六日寅、卯、辰(午前三時から九時)の時刻には関ヶ原で負けたことが際限なく伝えられてきたという。」

今は無き大津城の姿が描かれている。
大津城は石垣作りで100メートル近い長い多聞櫓、三の丸、二の丸があったことが分かる。
三の丸は一番外側の曲輪であったのだrぷか、鉄砲の攻撃をまともに受けて無残な姿をしていたとある。
二の丸にはかつての秀吉の愛妾であった松の丸殿のいる御殿があった。
この大津城攻めの様子を京都の町民たちは、三井寺の観音堂から弁当持参で眺めていた。
城内の人が逃げ回る様子をショーでも見るような感覚で見ていたのか。
それとも、落城後の城内の略奪を狙っていたのか。
いずれにしても生々しい描写である。

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