近江佐和山城攻め②

『脇坂伝記』
「江州佐和山の城には三成の舎兄石田杢頭(正澄)という者が立て籠もっており、それを追伐するよう命令が下され、その日、柏原の宿に陣を取る。開けて16日に佐和山の城へ押し寄せた。十七日、脇坂父子は城の南大手の口より押し入り、攻めた。午の刻(12時から13時ころ)ばかりには落城した。石田家の陪臣津田泉州父子、上野喜左衛門父子等十四人生け捕りにし、石田の徒党悉く討ち果たした」

『関ヶ原記』
「家康、磨針へ御本陣をお移しなされた。佐和山城を攻められる人々は、石川左衛門・田中兵部大輔・金森出雲並びに、返忠の者共、我先にと攻め入った。中略
石川左衛門・石川雅樂之助旗九本は松原口より入り、石川民部は切通より押し込んだとのことである。城内では防戦するも多勢に無勢で敵わないと思い、妻子共に向かって今はこれまでである、世をも人をも恨んではならぬと念仏をすすめ、心強くも妻子共を刺し殺した。是を見た子供たちは、佐和山が崩れるばかりに嘆き悲しみ、その様子は目も当てられない程であった。石田隠岐守(正継)同じく石田杢頭(正澄)子息左近、宇多下野守らは各自自害したので、郎党土田東雲斎、城に火を懸け、腹を十文字に切って無上の煙となった」

「石川左衛門・石川雅樂之助旗九本は松原口より入り、石川民部は切通より押し込んだ」とあるが、「松原口」とは佐和山の背面、琵琶湖側を、「切通」とは城内を通る切通道を指すと思われる。どちらも簡単に攻められるところではないので、これは城攻めからかなり時間が経ってのことを指しているのかもしれない。

『関ヶ原御合戦当日記』
「関東軍は九月十六日より、佐和山城を攻めに向かい、(三成の)父石田隠岐入道・同杢・同松之助・息右近・治部舅宇多下野守頼忠・同早治郎・石田隼人、虎口堅く、山田上野助籠り、北の方水の手は河原織部、中之丸は養寿院、合わせて三か所なり。当城は石田がかねて秀頼公を移し奉らんと大坂より弓・鉄砲・玉薬夥しく取り寄せ、用意して、寄せる敵を待ち構えていた。東国勢は、小早川中納言家来、平岡石見守一番に攻め寄せる。城中よりは、鉄砲を形の如く撃つ。家康公はご覧ありて、矢の口を止めよと城中に通じさせ、三成敗北の上は籠城は叶わない、大将分の面々に速やかに腹を切れば、妻子家中の輩、命を助ける旨、船越五郎左衛門を城中へ遣わされ、隠岐・下野・右近・その外治部近親各々自害し、城を渡す。石田隼人十三歳なりしが、是も自害すべきと云いけるを、乳人、夜のうちに紛れて連れ出し、その後、召し取られ、京都六条河原にて誅されける。治部女房は戸田洞雲という者刺し殺す。そのとき、鉄砲の薬二三石有しに、火を懸けければ、洞雲も共に死す。九月十七日の落城なり」

この記述で興味深いのは、三成が大坂の秀頼を佐和山城に移すことを考えていたとあることである。
もちろん、これは一次史料ではないため、信ぴょう性に問題はあるが、三成は関ヶ原に松尾山城という山城を築いており、この城は一時的な陣城にしてはあまりにも丁寧に作られていることを拙著『敗者から見た関ヶ原合戦』で述べた。
そこから、この城には大坂方の総帥毛利輝元さらにはそれに率いられた秀頼を入れる予定であったのではなかろうかと同書で推理したが、もし、佐和山城にも秀頼を入れるつもりがあったとしたら、三成は松尾山城が不首尾に終わった場合、佐和山にも秀頼を入れ、家康を迎え撃つことを考えていたのかもしれない、。秀頼が入れば、徳川軍といえども手出しはできない。
やはり、秀頼は最後の切り札であったのだろうか。

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