福島正則への論功行賞と薩摩島津攻めの延期

『慶長記』
「今度、忠節によって、福島殿へ安芸・備後両国を遣わされた。その使いには本多忠勝、井伊直政が遣わされた。もし、両国を遣わされたことを不足に思ったらと両人は気を使いながら様子を見たが、正則は思いのほか機嫌がよく、過分に存じ奉るとのことで両人は大変喜んだという」

十月十四日、伊達政宗は家康に随っていた今井宗薫に対し、家康の大坂入城を祝し、東国の状況を報告した。
「この度の戦い、最上は苦戦していたが、そこに無二に加勢に入り、結局敵(上杉)は敗軍になってしまいました。・・・・・十月六日からは福島に兵を進め、大勝利を得ました。・・・兵たちはくたびれ果てていましたが、家康様が下向される前に何卒決着をつけさせて下さいと日本中の神に油断なきよう祈りました。・・・・」
伊達は、関ヶ原直前、上杉との同盟を模索していた。
もし、関ヶ原が長引いて、家康の苦戦が伝えられたら、東北の情勢はどうなったかわからない。
そんなことは関係ないとばかりに、伊達は家康にリップサービスを行っていた。

同十五日、家康は伊達政宗に、関西諸大名の行賞配置を終わったので、来春は江戸に帰り、会津をはじめ関東の処理をするつもりであるとの書を送った。

十月二十二日、島津竜伯・忠恒は寺沢広高(長崎奉行)に書を送り、家康に対して二心ないことを述べ、島津家の立場を陳述した。
「遠方により音沙汰をしなかったことは、思ってもないことです。家康様には御高恩の儀は忘れたことはありませんが、家康様もご存知のように秀頼様に対しては長々忠節を励むべくと思い、五奉行に随った次第です。君臣の道を貫いただけです。これらのことをお考えになって、御取り合い下さい」

十一月四日、黒田如水が加藤清正に薩摩へ討ち入ることは中止すべきと申し入れる。

十一月十二日、家康は黒田如水に、寒気に向かう折、薩摩攻めはしばらく中止するよう諸将に命じた。

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