毛利の領地削減

十月三日、吉川広家は黒田長政を通じ、本家を潰して自分が領地をいただくわけにはいかないから、領地は是非とも輝元へ賜りたいと嘆願した。長政はこれに返書を送った。
「今度のことは、とにもかくにも、井伊直政・福島正則・私の三人にお任せいただきたい。毛利の安否については、今日明日にも究められることでしょう。中国のうちせめてはあなた様に、残りは輝元殿のものになるようにいたしましょう。あなた様の身が破れることになれば、輝元殿の御為にもなりません・・・・」

同日、吉川広家は福島・黒田に書を送り、輝元の罪を免じ、毛利家の存続を歎願した。
「今度の儀は、輝元の心底から起こったものではなく、安国寺が考えたことを奉行衆が取り上げて、西ノ丸に上がっただけで、これも秀頼様への御忠節の心があったればこそです。家康様に立ち向かおうなどそんな野心は全くありません。・・・今度のご恩をもって毛利家を存続いただければ、今後逆意の残党があろうとも、輝元においては、ご恩を心底に忘れずに千万一頭も不届きの心などありません・・・・」

十月五日、家康は吉川広家の歎願を受け入れ、輝元父子に防・長州二国を与え、偽りないことを誓い、井伊直政が添え状を送った。

家康の本音はここにあった。
家康はここまで自分の方から毛利に領国安堵するとは一度も言ってはいない。
形の上では、福島正則、黒田長政、そして井伊直政らがそれを約束したに過ぎないのである。
毛利はそれを信じて大坂を退城したに過ぎない。
毛利の退城が終わった時点で、家康は初めて自らの措置を申し渡した。
ただ、それだけのことである。
実に巧妙な政治工作であるといえる。
横綱家康の本領発揮というところである。

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