近江佐和山城攻め①

家康は関ヶ原合戦が終わると、大谷刑部の陣所に宿泊し、翌16日、関ヶ原を発ったが、破壊された八幡神社修復費として三千貫文を与え、領主竹中重門に対し、戦死した兵たちのために首塚を作り、神社の再建、その地の住民の鎮撫を命じた。
その日、大垣城二の丸にいた大坂方の相良頼房は三の丸の秋月種長、高橋元種とともに降伏を申し出、井伊直政がこれを許可した。
大垣城本丸には三成方の福原右馬介、木村惣左衛門父子、筧和泉、熊谷内蔵助らがいたが、相良頼房、秋月種長、高橋元種の裏切りによって木村惣左衛門父子、筧和泉、熊谷内蔵助は殺害され、彼らはその首を土産に徳川に投降した。なお、福原右馬介は高野山に送られたという。(「水野日向守覚書」)

佐和山落城
『慶長記』家康の本陣
「十六日、佐和山の南のなみという村東の山に野陣、いかにも簡単な小屋二間(3.6m)四間(7.2m)ばかりに藁ぶき、垣根も藁で、入り口に戸もなかった。・・・・・、小屋の外に畳を三十畳ばかり敷いて、其の上にお目見えの奉公人三十人ばかり入れ替わり出替わりしている。・・・・お供の武士たちは佐和山の百姓の家に宿を取って野陣するものはいない」
ここでは、佐和山攻めの布陣の様子が生々しく描かれている。

「天守の上の重より火見え候。・・・佐和山城には石田杢(もく)治部兄、天守にて焼け死に。長谷川右兵衛も佐和山に籠り候か、内々御味方仕り候首尾にては御前へ出、式部と名を申し候。知行は一万石、杢も一万石、佐和山には落城以後金銀は少しもなし。治部貯え申されずの由」
佐和山城は天守に火がかけられ、三成の父、兄、舅らがそこで自刃した。
佐和山城攻めに加わった兵士たちは、戦場での分捕りに夢中になっていたと思われるが、彼らの予想に反して佐和山城の御殿は内部は荒壁で、」質素なものであったという。しかも、そこにはめぼしい金品など全くなかった。
三成は、普段から、主君からいただいたものはすべて主君のために使うと話しており、今度の関ヶ原合戦にすべてをつぎ込んでいたことがうかがわれる。

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