石田三成、小西行長、安国寺恵瓊の捕縛

『慶長記』
「石田治部少輔・小西摂津守・安国寺三人首金をはめ、乗り物に乗せ、柴田左近・松平淡路守奉行手前の者ばかりにて外に人は仰せ付けられず候」

「備前中納言殿生死しれず。田中筑後守(吉政)・西尾豊後守(光教)に仰せ付けられ、伊吹山の辺り、江州北郡残らず尋ね候えども知れず」
「小西摂津、関ヶ原林蔵主、からめとりて進上すると、和泉守記録にあり」

『寛永諸家系図伝』
「竹中重門丹後守、その後、大権現(家康)関ヶ原にて三成と御合戦のとき、御旗本に属す。巨徒敗北の後、重門は家人関ケ原の山中において小西摂津を生け捕りて、之を献じければ、御朱印の御書をたまわる。尚、重門は小西行長がさす所の光忠の刀を拝領、その後、釣命ありて、関ヶ原は重門が領地なり。しかるに今度戦場となりしをいたわりおぼしめすとの仰せにて、米千石を賜る」

『朝野旧聞』『細川家記』
「江州北郡越前境にて、石田治部少輔生捕り候由、田中兵部大輔所に従う」

『田中吉政系図』
「三成は越前を指して落ち行くときこしめされ、すみやかに召し捕るべき旨御所を賜う。これにより、家臣等に下知して、三成が所在を探し求めむ。廿三日三成近江の草野に身を隠し、樵夫の体にもてなして付し居たり。男吉次が先手田中伝左衛門正武、あやしみてこれこれを問う。三成樵夫のよしを答う。しかれども、その面をよく知れる者ありしかば、すなわちこれを生捕りて、大津の御陣営に献ず」

宇喜多秀家を除く大坂方首脳はことごとく捕らえられた。
石田三成、小西行長ら大坂方としては、何とか逃げ延びて大坂城に入り、家康と再びの合戦を行うことが最後の切り札であった。
事実、大津には無傷の立花宗茂もおり、宗茂は一度は大坂に戻り、大坂城の毛利輝元に家康と戦うよう進言している。
しかし、家康としては何としてもそれだけはさせてはならなかった。
何といっても、大坂には主君秀頼がおり、家康は大坂城を攻めることはできないのである。
そのためには、石田らを早期に捉え、大坂入りを阻止しなければならない。
大坂の毛利を孤立させれば、毛利は降参するに違いない。
家康の読みはそこにあった。

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