毛利輝元との大坂城退城交渉

大坂城にはいまだ秀頼を擁して毛利輝元が西ノ丸を占拠していた。
家康としては、主君秀頼のいる大坂城を攻められるはずはなく、かといって、そのままにすれば、関ヶ原で無傷の立花宗茂や毛利秀元らが入城して、再びの戦となる可能性もある。
家康としてはそれだけはどうしても避けなければならなかった。
そこで家康がやることは、関ケ原の残兵、諸将を大坂城に入れないこと、そして速やかな輝元の無血開城の交渉を開始することであった。

関ヶ原合戦の二日後の九月十七日、福島正則と黒田長政は連名で大坂の毛利輝元に書状を送り、家康の意を伝えた。
「今度、奉行たちの逆心により、家康様は関ヶ原に御出馬されましたが、一族の吉川殿、福原殿が輝元公お家大切に存じるにつけ、そのことを家康様に申し上げられましたところ、輝元公には少しも如才なく、御忠節はこれ以後も変わることはないと談じておられました・・・・・」

これに対して輝元は二十二日、井伊直政・本多忠勝に神文誓書を送り、家康に対し、二心のないことを誓った。
「この度は吉川侍従・福原式部の心を汲まれ、御取り成しいただき忝く存じます。我ら分国、安堵なされるとのこと、この上は西ノ丸を明け渡し申し、これ以後は家康様にいささかも如才なく表裏別心なくいたす所存です」
さらに、輝元は福島正則、黒田長政に対し、神文の誓書を送り、家康に二心ないことを誓った。
「今度の御取り成し、まことに忝く存じます。我らの分国、相違なく安堵して下さるとのことで大変喜んでおります。この上は、西ノ丸を明け渡し、以来、御両所に対し、今後いささかも表裏なく別心なくいたす所存です」
九月二十三日、福島・黒田は家康に毛利輝元を説得したことを大津の家康に報告した。

九月二十四日、毛利輝元が大坂城西ノ丸を退出したので、黒田長政は大坂城西ノ丸に福島正則を入れるよう家康に進言し、家康はそれを承知した。
同日、徳川秀忠は、黒田長政に対し、毛利輝元を大坂城から退出させた功績を賞した。

同二十五日、黒田長政は、吉川広家が家康公のために尽くしていることはよく認められているので心配はないとの起請文を送った。
「御進退の儀、井伊兵部申す談、我ら請ける以上は、一切、心疎にあるべからず」
同日、福島正則・藤堂高虎・浅野幸長・黒田長政らは連署で、毛利輝元に井伊直政・本多忠勝らの誓紙には偽りのない事、且つ輝元に別心なくば、家康においても異議のないことを誓った。

同日、家康は黒田長政から毛利輝元を説得して大坂城西ノ丸を退出させるとの通知が来たが、不安なので徳永法印を遣わしたところ、長政からは近日受け取る旨の返事があったので、家康は喜び返書を書いた。

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