佐和山の思い出6

佐和山城はもともと中世戦国時代の城であったものを織豊系城郭に変えたと思われ、両方の遺構が混在している。
そのため、小さな曲輪も多い。
その曲輪がすべて石垣作りであったとは思えない。
ややこしいのは、彦根城が築かれるに及んで佐和山城のほとんどすべての石垣が割られたり、転用されたため、現在残っている遺構には石垣は全く存在しない。
そこから、初めから石垣作りであったのか、それとも初めから石垣などない土の作りであったのか、判断が難しい。
例えば、今に残る大手門跡の両側に残る土塁は初めから土塁であったのか、それとも石垣を外された後のものなのか判断は難しい。
ただ、佐和山城の大手門であるなら、当然石垣作りであったのではないかと思われる。
大手門は城の玄関であり、そこは出来るだけ豪華にしたいと思うのは当然であろう。
大手門の造作を見れば、城全体の造作が分かるからである。
しかし、大手には現在は石垣の痕跡などどこにもない。
城を壊す「破城」というのは、城の一番目立つ箇所を壊すというのが原則である。
その意味では大手門の石垣をすべて外し、みずぼらしく見せるということは大いにあり得ることであろう。
そう考えると、佐和山城の大手は豪華な作りであった可能性は高かったのではなかろうか。

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